少年シニア 55歳から学ぶ理科

生命のルーツを知ることは自分を知ること。生命の不思議で人生ワクワク致しましょう!

№207📕約2万年前から農耕生活へ(日本編)

お元気ですか。少年シニアです。

いよいよ我々日本の2万年前から農耕が開始されるまでの状況を見ていきたいと

思います。そこには日本ならではのオリジナルな姿がありました。

 

 

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

 

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  日本に人類が登場したのは約3万年前、東南アジアから台湾を経て来た者が最初だという説や中国北部から南下してきた者たちが最初だなど諸説あります。その我々のご先祖様は、厳しい氷河期をようやく脱した約1万1500年前にあの岡本太郎が絶賛したアートとしても通用する土器(いわゆる縄文式土器)を使って質素ながらも豊かな生活をしていまた。このようなアーティスティックな土器は世界にもまれで細い棒で壺を回転させながら複雑な幾何学的な模様が施されていました。

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 日本の狩猟採集民が移動性の生活スタイルから定住性のそれへと切り替えたのは、約1万1500年前ぐらいからでした。縄文時代の人々は幸いにも日本の林地と沿岸の豊かな食糧源を利用することができたので、もっぱら自然界から得られる食糧に依存して生活していました。ですから農耕の必要性が少なかったのです。そこが、最初に農耕が開始されたヨルダンとの違いでした。

ただ、彼らは自然界から得られる食糧を一定の期間保存したり調理するための土器をうまく利用しました。縄文式土器がまだ移動生活をしていた最終氷河期以前の1万5千年前から使用されていたことが、九州西部の遺跡からその破片が出てきたことで証明されています。日本は世界最古の土器を生み出した国なのでした。

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 日本の文化性の高さは土器に留まりません。日本の狩猟採集民は石斧の刃を研ぐことでその切れ味を高めていましたが、それはヨーロッパにおいて用いられる数千年前にすでに実行されていました。縄文人は漆も創案していました。漆の木の樹液を土器に塗り、加熱と濾過の工程を加えていました。これが約9000年前で、これも世界最古の漆器とされています。

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 なぜ縄文人が創意にみちた土器を、世界のいかなる土地よりもはるか早い段階でつくっていたのでしょうか。それよりかなり時代はたつとはいえ、早い段階で土器を作っていたのは中国人であり、それは稲作に土器が必要だったからです。でも日本は違います。稲作をするずっと前から土器を使用していたのです。これには諸説あるようですが、九州を被っていた広葉樹林の産物の調理や貯蔵のために土器が必要だったのではないかという説が有力です。しかし欧州などではこれらの用途を満たすためにもっと簡便な枝編み細工や木や石でつくった器ですませていました。

中には部族間の争いの中で、実用面よりもその部族の技術力を誇示するために創意ある土器がつくられたのではないかと考える学者もいます。縄文時代後期には、それだけ時間と技を駆使して創った土器を豊かさをこれみよがしに示すためわざと叩き割ったと思われる破片も遺跡から出ているくらいです。

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 ただ、部族間の争いがあったとはいえ部族内の中で貧富の差がみられるような物的な証拠は見当たりません。

そうした彼らがようやく農耕生活をはじめたのは、7000年前に九州の南部沖に発生した最大級の噴火がきっかけになったとみられています。海を越えて襲った火砕流は、北海道にまで火山灰を積もらせるという前代未聞の噴火であり、日本が狩猟生活に留まる背景にあった豊かな自然を一瞬にして奪ってしまったのです。

そんな中人々は、中国同様自生していたイネの種を栽培するようになり、本格的なイネの耕作が中国から伝授される2500年前まで、狩猟と栽培の二本立ての方法で生をつないでいきました。日本の豊かな自然と苛酷な自然が狩猟生活から農耕へのシフトの他の国々では見られない物語を紡ぎ出したのでした。

 

 

№206📕農耕・牧畜への歩み(2万年前以降の世界 アメリか大陸編)

お元気ですか。少年シニアです。

アメリカ大陸への人類の移動は最も謎にみちています。移動時期、移動ルートなど

決定的に裏付ける証拠がないのです。今回はアメリカ大陸の約2万年前から1万年

前を見てみます.

 

 

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

 

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 まず、最初のアメリカ大陸への移動時期と移動方法についての学会において最も有力な説は氷河最盛期(約2万年前)にはいってシベリアとアラスカをつなぐベーリング海峡が海面の低下によって橋となり、北アジアからアメリカ大陸へと移動していったという説です。ただ、渡ったもののアラスカの氷河の厚さは半端なものではなく、アラスカの近辺に留まるしかありませんでした。それが温暖化の流れが数千年続くと、ようやくアメリカの各地に進出することが可能になったようです。

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 アメリカ大陸の最初の人類の生活様式に関して最も有名なののは「クロ―ヴィス文化」とよばれるものでした。この名称はニューメキシコ州の小さな名前ーその町の近くの遺跡からいくつかの尖頭器とマンモスの残骸が発見されたことに由来しています。最初にアメリカ大陸にはいった人類は、マンモスという大物を高度な技術の必要な尖頭器で、協力して狩りをしていたのです。その後もアメリカ各地でクローヴィス尖頭器とマンモスの残骸が発見されました。それらの遺跡はどれひとつ約13500年前にまで遡っていませんでした。この遺跡が本当の意味で最古のアメリカ大陸の人類だとすれば、約5000年間くらいアラスカ近辺に留まっていたことになります。

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 しかし、このクローヴィス文化に疑問をもつ学者があらわれます。アラスカのから約1万3500万年以上前に人類が住んでいたという痕跡がみられないうえに、移動の入口であるシベリアにも人類が定住していた痕跡がみつかっていないのです。

さらに、その後アメリカ大陸で、1万8000年前に人類が定住していたと思われる遺跡がでてきたのです。そうなると、アジアからアメリカ大陸への移動時期はもっとはやくおこなわれていたということになります。

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 そのうえ、次は南米チリの遺跡で約1万4500年前に人類が定住していた証拠があらわれ、アメリカ大陸へのの早期移動説を後押ししました。ベーリングからチリまでの距離は約1万5000㌔。アラスカ近辺に5000年ほどとどまっていたとしたら、これは完全に矛盾したことになります。移動時期は2万年前の最大氷河期ではなく、最大の氷河期前にアメリカ大陸についた人類が最大氷河期になるまえに、アメリカ大陸に拡散していったとも考えられます。まだまだ移動時期と移動方法は未知のままです。

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 南米での人々の生活は北米以上多様で、狩猟や採集・魚つりを中心に様々な方法で、生をつむいでいたようです。アマゾン川流域はその地域の苛酷さから人々が住んでいたのは5千年前くらいだろうと思われていましたが、実際は1万年前から人が住んでいたことがわかっています。ただ農耕は予想以上におくれていたようです。それだけ野生の植物や狩猟対象に恵まれていたからかもしれません。家畜化が農耕に先行して推し進められていきます。狩猟対象だったアルパカやリャマの牧畜の対象だったようで、すでに7千年まえ以上から本格的な家畜化がすすんでいきます。本格的な農耕はその後に本格化しますが、意外なのはジャガイモの種子を集め栽培していたということです。ご存じジャガイモは紀元後1500年以降欧州にはいって北部を中心に欧州の食糧のメインとなりました。そのルーツが南米にあったというのは、とても想像はつきません。南米でも比較的涼しい高地で栽培されていたようです。

次回以降は日本も含めた東アジア 東南アジア 豪州などの氷河期以降を記する予定です。

 

 

 

 

№205📕農耕・家畜への歩み(2万年前から1万年前 欧州編)

お元気ですか。少年シニアです。

農耕と家畜が最初にはじまったのが西アジアであることは前回のブログで記しました。では他の地域ではどうだったのでしょう。今回はヨーロッパの状況をみていきます。

 氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

 

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 約2万年前、最大氷河期が訪れたときに、西アジアとヨーロッパが決定的に異なっていたのは、氷河エリアでした。最大氷河期には北欧はもとより、イギリスやドイツなども氷に覆われ、生活エリアが極端に狭まったのです。そのためそこにいた人類はポルトガル・スペイン・イタリア・フランス南部・ギリシャに南下してきます。そうなると当然のことながら食物の奪い合いとなり、人口は激変しました。

しかし、数千年後地球は温暖化し再び楽園がおとずれてきました。西アジアの狩猟民の栄養源はガゼルでしたが、ヨーロッパではトナカイでした。狩猟による不安定ながらも幸福な日々は続くと思われました。南部のラスコーやアルタミラでは洞窟にアートとしての絵画を描くようになったのもこの頃です。

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 ところが、約1万2千年前、再び急激な氷河期におそわれました。特に北部は林だった地域は再び再び不毛なツンドラへと舞い戻りました。野生の穀物を栽培するという技術をもちあわせていない彼らは、絶滅寸前にまで追い込まれ、再度トナカイの群を追うことしか術はありませんでした。

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 ただ、再び約1万年前から気温が上昇し完全な間氷期にはいると次第に、以前のような余裕のある狩猟と野生植物の採取の生活に戻りました。そんな折、約1万1千年前、ギリシャの南部の遺跡から野生の麦や豆の種が保存されていました。その数は27種の異なった植物の二万八千粒以上の種子でした。西アジアで始まった農耕が西アジアからヨーロッパに移動してきた人や交易を通じて、農耕技術が欧州に約千年ほど遅れて伝わってきたのだと想像されます。

狩猟から農耕へのシフトにつれ、洞窟に描かれた食物のシンボルであった動物の絵も激変するようになりました。

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 とは言っても、一気に狩猟生活から農耕生活へとシフトしたわけではなさそうです。農耕は思った以上に重作業ですし、そこから得られる栄養は、狩猟で得られる栄養の比には及びません。狩猟生活は不安定ですが、その分、狩猟が終われば自由な時間が待っています。また少数の共同体なので貧富の差もなく人間関係のわずらわしさに悩むことはありませんでした。しかしそれでも徐々に狩猟から農耕へのシフトが進み、こちらも西アジアから数千年おくれて約七千年前ぐらいからイヌの家畜化が進みます。ただ、ヨーロッパは西アジアよりもエリアが広く西アジアほど土地も温暖で肥沃でなかったので、本格的な農耕は、紀元前5千年ほど待たなければまりませんでした。

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 狩猟民も狩猟をしながら簡単な農耕をして、その意義を認識しながらその安定性に惹かれ、また道具の進化により農耕業務が従来より負担がかからなくなるのを見届けて農耕生活を主としやがて食糧確保のための家畜化を推し進めていくようになっていったのです。

 

 

№204📕農耕・家畜への歩み(2万年前から1万年前の西アジア編)

お元気ですか。少年シニアです。

前回は、ホモサピエンスの出アフリカ(約8万年前~)から約6万年をかけて、世界

のほぼ全領域に拡散していく様子をみてきました。特に約2万年前に発生したLGM

(最終氷期全盛期)はユーラシア大陸からアメリカ大陸の進出を促し、最終的に南米

の先にまで人類は移動し、各地でその気候や地質にあわせた生活を送り、それが遺伝

子の変化や文化の変化をもたらし多様性をうみ、現在に到っています。

その際大きなポイントになったのは、約1万年前から本格化しはじめた農耕と家畜だ

といわれています。そして、農耕や家畜自体の行為が気候や地質を変化させる要因と

なっていきます。今後数回にわたって約2万年前の氷河期から農耕や家畜がはじまる

までの各地の経緯を考察していきます。

まず1回目は、世界で最も早く本格的な農耕が始まった西アジアから。

 

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

 

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  最大氷河期といわれたLGM以降、次第に地球は徐々に温暖化してきました。

これは動物や植物にとって歓迎すべきことで、特に植物において氷期時代は砂漠だった場所に草木(特にイネ科の植物)が生い茂るようになりました。

最初に農耕をはじめた西アジアにおいても、氷期以降はまだガゼルを中心に狩猟生活を送っていました。そのうえで、食物になる野生のイネ科植物を採取していました。こうした豊かな食生活は人口の増加を促しました。次第に集落の規模も大きくなっていきました。そして西アジアでは文化と呼べるような生活様式が約1万2千年前ころに誕生します。これがナトッフ文化とよばれるものです。

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 彼らの主な仕事は採取した植物を食料に変えることでした。大きなすり鉢をつくり、採取した植物をいれてすりつぶし粉にするのです。通常、狩猟生活はその日暮らしですが、将来に備えて木の実を確保するなど、安定した生活を目指すようになりました。住処の入口には灰を散乱させ、ノミや虱などを寄せ付けないための火をおこしました。

この時代には狩猟民族の住む家も自然に強い石積みのものが主で、これは狩猟民族の住居が移動から定着に変化したあらわれだと思われます。この時代の遺跡にはラットやマウスなどの骨が散乱していることが多く、定住した家に棲みつく動物が現れてきたのです。

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 また当時、すでにイヌの家畜が進んでいたことがわかっています。当時の遺跡の近くに子犬が埋葬されていたのです。狼は定住生活にひきつけられたマウスやラットを捕食するため人類のエリアにはいりこみ、住民もマウスやラットを駆除してくれる狼を歓迎し、番犬として次第に家畜化されたのかもしれません。一般的に家畜されたものは野生のものよりも小型化します。狼も家畜化の過程で独自の遺伝形質をもつようになり、狼より小型のイヌが生み出された可能性も否定できません。

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  ただ、ナトッフ文化の時代に植物の栽培が始まった証拠は未だ見当たりません。栽培がはじまるのは約1万年前です。温暖化していた気候が1万1千年頃から寒冷化して、再び厳しい時代に突入し、彼らは再び定住生活から移動生活を余儀なくされます。主食だったガゼルも激変し植物も枯れ、集落の単位も小さくなりました。

しかしそれから1千年後、再び地球は温暖化の流れに戻りました。雨がふり川の水も増水し、以前にもまして肥沃な土地がうまれたのです。そしてそのとき彼らは以前のように今ある食糧資源をただ採取し蓄えるだけでなく、ラィ麦やエンドウや豆などの種を事前に確保し、それをまき栽培することを学び実践しました。こうして彼らの生活はより安定して、その安定を願う宗教的な行為もみられるようになりました。

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 人類は狩猟や防衛に役立つイヌに続き約1万年前ヤギやひつじも家畜化し、乳糖を摂取するようになりました。そしてさらに牛、豚を家畜化し、生活の基盤は徐々に農耕と牧畜に依存していくようになります。小麦や大麦の栽培やロバや馬の家畜化はまだ数千年を要しましたが、この農耕と家畜が西アジアから始まったことで、その行為は全世界に伝播し、人類の遺伝子や生活様式を大きく変えることになったのです。

 

次回はアメリカ大陸の2万年前から1万年前の様子をみていきます。

 

 

 

№203📕アメリカ大陸への移動諸説

お元気ですか。少年シニアです。

今回はアメリカ大陸の祖先の話しとなりますが、当初は、単純に大氷河期(LGM)

以降、シベリアとアラスカがつながって、ベーリング海峡を廊下としてそのルートで

続々とがアメリカ大陸へ人類が入殖したと思われていました。しかし、アメリカ大

陸の遺跡や化石、南米の遺跡や化石を綿密に調査していくうちに、この説に疑念を

もつ学者が現れてきました。

 

人類の足跡10万年全史

人類の足跡10万年全史

 

 

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 当初はアメリカ大陸への入殖は1万年前にも満たない時期とされていましたが、その後ニューメキシコ州のクロ―ヴィスで1万年前以降の地層からマンモスの骨の近くに大きな尖頭器が見つかり、アメリカ大陸の入植は1万年前より古いということが明らかになりました。その後、クロ―ヴィス尖頭器はアメリカ大陸の各地から発見されます。ただ、それは全て1万1千万~1万千五百万前のもので1万2千万年前より古いものはありませんでした。1万2千年前というのは、北米で大氷床がとけてアラスカからカナダ・アメリカへの通過が可能になった時期であり、この点でも、クローヴィス最古説はほぼ合理性の高い説とされました。

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 ただ、ベーリング海峡が氷河期で氷廊となりアジアから人類が移動した時期については、様々な説がとびかいました。1万5千万年前という学者もいれば2万年前という学者もいました。またオーストラリアの入植が海を渡ってというのが定説でしたから、ベーリング海峡が氷廊になる前に移動している可能性も示唆されました。

そうした議論がされている中、約1万9千万年前のアメリカ東部にあるメドウクロフト洞窟から大量の石器が発見されました。これにより、シベリアからアラスカへの移動はLGM以前の2~2万5千万年前まで遡るのではという説が有力となりました。

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 しかし、それで学会の意見が統一されたわけではありませんでした。さらに南米チリのモンテベルデから、約3万3千年前の地層から人類が使用していた石器が発見されたという情報がはいってきました。しかしこれはさすがに証拠が不足していました。ただ、少なくとも1万2~3万年前には人類は南米の先までたどりついていたことが明らかになりました。モンテベルべ遺跡はアラスカから1万2千キロ南にあり、いずれにしてもクローヴィス説よりも早く人類はアジアから移動してきたことになります。氷期の進行は予想以上に人類の南米への移動を加速させたことでしょう。

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 さらには、移動ルート自体がベーリング海峡越しだけではなく、フランスやスペインに接する欧州の氷河避難地域から船を使って大西洋を渡りアメリカの東岸にたどりつきクロヴィスの人々になったという説も登場しました。この他、南米にはアフリカから太平洋を横断して移動したという説まで存在します。

アメリカ大陸への人類の移動についてはまだまだ多くも疑問と決定的な証拠がありません。この謎がまた我々の好奇心をくすぐり調べようという意欲につながります。

まだまだわからないことが多い。そのためにもDNAの解析だけでなく、考古学・言語学などの専門家がうまく連携して事実を明らかにしてもらいたいものです。

 

 

 

 

 

№202📕2万年前大氷河期が人類の移動を促した

お元気ですか。少年シニアです。

アメリカ大陸への人類の入殖の件について話をする前に、約2万年前におこった大氷結

時代について確認しておきたいと思います。 

人類の足跡10万年全史

人類の足跡10万年全史

 

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  約3~5万年は、地球は現在のように間氷期で、寒冷化した時代もそんなに人類の生命を脅かすレベルではありませんでした。しかし2万年前になると、かつてない寒冷化がおきました。いわゆるLGM(LAST  GLASIAL MAXISIMUM)です。地球の自転軸の変化と公転軌道の変化がこうした寒冷化をもたらすのです。LGMとその余波は、それI以降に見られないほど大規模に北や高所に住んでいた人類の移動を促しました。

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今までの生活圏は大幅に縮小し比較的氷期に影響をうけない場所に人類が移動してきたのです。幸運だったことは、まだ世界の人口は少なく未開の土地があったことでしょう。また、海の水面が大幅に低下したことで海岸の沿岸部に人類がすめる新たな土地ができたことも、不幸中の幸いでした。

とは言っても大氷河期は生物に苛酷な生活をしいたでしょう。ただ寒冷化するだけでなく雨が降らないため砂漠化が進行して生物界を支える植物の供給が低下するのです。

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 LGMの最大の余波を受けたのは欧州だと言われています。当時は欧州大陸の一部だったイギリス諸島は南のオックスフォードまで凍りつきました。スカンジナビア半島では今も湖やフィヨルドなどの地殻のへこみとなってあらわれています。北アメリカも同様で、カナダや氷床に覆われグリーンランドの氷冠とながっていきました。 そして本題であるシベリアとアラスカがこれまで海面にしずみこんでいた大陸ベリンギアが橋の役割を果たして両地域がつながったのです。

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 ここに、アジアに住んでいた人類がアメリカ大陸へと移動する道が開けました。恐らく好んで彼らはアメリカ大陸へ移動していたわけではなかったでしょう。自分の住んでいるところに不満がない場合、だれが好んでリスクをおかしてまで住処を変えるでしょうか。生物は原則的に保守的なのです。人類だけがその好奇心でリスクを冒して変化を続けていったから他の生物より優位にたてたと主張する学者もいますし、それは一面あたっているでしょう。しかし、それは結果としてであって、移動する理由がなければ人類でさえもあえて移動しなかったでしょう。

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 ですから、シベリアからアメリカ大陸に移動した人たちは、今まで住んでいたシベリアが完全に氷冠に覆われ住めなくなったから、窮余の策として動物の移動にあわせてアメリカ大陸への移動を決意したのだと思われます。

しかし実はアメリカへの入殖期がそう単純ではなかったことが、北アメリカや南アメリカから発掘された遺跡から見えてきました。。

その話は次回に。

№201📕オーストラリアへの入殖の早さ

お元気ですか。少年シニアです。

ホモサピエンスの出アフリカで、私が最も驚いたのがオーストラリアの入殖が

欧州よりも約1万年以上早かったということでした。当時の海の高さが今よりも

低いということがあったとしてもインドネシアとオートスラリアが完全につなが

っていたということはなく、海がその進路を妨げていたので、入殖は容易ではな

いと思っていたのです。

 

 

人類の足跡10万年全史

人類の足跡10万年全史

 

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 当初。オーストラリアへの入殖は、約3~4万年前と言われていました。しかし、その後の調査で5~7万年前の地層から人類がつくったと思われる避難地の壁がみつかり、それによって約5~7万年前に人類がオーストラリアへ入殖していることがわかりました。今では約6万年前後というのが主説となっています。ただどうして海を渡るというリスクをおかしてまで、一部のグループはオーストラリアに入殖しようとしたのでしょうか。

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 おそらく海へは簡単ないかだをつくって渡るものがいたのでしょう。それくらいの技術を有している者がいたのです。しかし、実際は多くの者が海の犠牲になったことでしょう。移動の促進したのは、約7万4千年万にマレーシアのトバ火山で発生した大噴火だと考えられます。この大噴火は200万年前の地球の歴史において最大規模の噴火といわれており、インドやマレーシア半島のほぼ全体が火山灰で覆われました。運悪くトバ周辺にいたホモサピエンスの多くが死んだでしょう。こうした現状に巻き込まれて人類は移動を決意したのだと思います。

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 あるグループは川つたいに内陸部へ移動し、あるグループはインドネシアにむかいました。そしてインドネシアを経由してオーストラリアやニューギニアに向かうグループがあらわれたのです。先ほどもいったようにインドネシアとオーストラリアやニューギニアは一度も陸路としてつながったことはありません。ですから海を渡って移動するしかなかったでしょう。ただその距離は現在より近く寒冷期で海の高さも低く、海を渡るハードルは我々が想像するよりは低かったと思われます。

また、インドネシアには様々な種類の木があり、丈夫ないかだをつくることが素材に恵まれていたこともいかだづくりに利したでしょう。

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 欧州への入殖が遅れた要因の一つとしてネアンデルタール人が先住していたことがありましたが、当時オーストラリアやニューギニアには他の人類もいなかった(もしくはごくわずかな旧人類しかいなかった)のでしょう。面白いのはニューギニアとオーストラリアの人類の交流がほとんどなかったらしいということです。これは移動したり交流する必要がないほど人類が生活するのに適していたからでしょう。彼らはアフリカとの距離がかなり遠かったにもかかわらず、アフリカに残ったホモサピエンスの遺伝子が、他に移動した人類よりも近かったことも大きな謎と言えるでしょう。

 

次回は、アメリか大陸へと渡っていったホモサピエンスのことについてまとめてみたいと思います。

№200📕アジア人の拡散ルートについて

お元気ですか。少年シニアです。

前回のブログでアフリカから脱出したホモサピエンスの主役が現在の欧州人でない

ことをご紹介しました。それでは主役は誰なのでしょうか。それはずばりアジア人

です。現在のパキスタン・インドといった南アジアこそ、その後、東南アジアへ

オーストラリアへ、中国へ 日本へ 迂回して欧州へ、最終的にはアメリカ大陸へ

と全世界に拡散していった拠点だったのです。

人類の足跡10万年全史

人類の足跡10万年全史

 

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 アジアは広大な土地を有しています。また気候も人も多様です。インド人とインドネシア人は外見でもその差異がわかりますし、ベトナム人と中国人の外見もまったく異なっています。同じ中国でも内陸部の中国人と沿岸部の中国人の外見も明らかに違いまうす。このことは、食糧の確保できる確率が高い海岸沿いにすすんだ人々が、ある地点でアジアの広大な中央部に拡散していったことを示しています。

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 その最初の分岐点がインダス川が流れる地点です。まずここまで行動を共にしていたグループの一部が海岸づたいのルートを放棄してインダス川沿いに北上したのです。行動を共にする中で人口が増え、このままだと食糧の確保が困難になると判断したのかもしれません。アフリカを脱出して5000年後の約8万年前ほどのことです。彼らはゆっくり北上し約4万年かけて今のウズベキスタンカザフスタンにたどりつきます。ここまでの移動に4万年もかかったのはインド・パキスタンに連なる山脈が、移動への大きな障壁になったからでしょう。

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 カザフスタンウズベキスタンより北は寒冷のため人類が定住するには不適だったのでしょう。そこで一部のグルーブは進路を西にかえカスピ海黒海の北部を進んで、最終的に欧州に約2~3万年前にはいりこみ欧州人として定着します。

一方逆に進路を東にむけてチベット・モンゴルの北部を進みバイカル湖を経由してアムール川をつたってシベリア海にたどりついたグループもいました。その海の行き止まりから北に向かったグループが、のちにベーリング海峡を歩いてアメリカ大陸へ入った人達です。逆に南に向かい樺太から日本に入植したのが、アイヌ人の先祖です。アラスカの人達とアイヌの人達の顔立ちが似ているのも、アムール川までは行動を共にしていたことが要因にあるのかもしれません。

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 また、一方でこれまで通り海岸沿いを続けインドの縁を歩きバングラディッシュミャンマーに入植したグループがいます。そしてそこで川づたいに内陸にはいりこんだグループとインドネシアへ向かったグループに分岐します。インドネシアへむかったグループはさらに、ニューギニアやオーストラリアへと移動を続けます。この移動ルートの詳細については、次回のブログで詳しく言及するつもりです。

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 現在もっとも人口が多いのはモンゴロイドですが、海岸沿いに固執せず川をさかのぼってアジア中央部にはいりこむことで、内陸部の気候に最も対応できたモンゴロイドの身体的特徴(平板な顔や細い繊細な骨)が、アジアの広大な内陸部の気候に最も対応でき人口も増大したのでしょう。

いずれにしても多様で広大なアジアが拠点となって、気候変動に対応する形で拡散しオセアニアアメリカといった他の大陸への移動に道を開いたのです。

次回は、オーストラリアやニューギアなどオセアニア地区への人の移動についてお話しする予定です。

 

 

 

 

 

 

№199📕欧州に進出したホモサピエンスの起源

お元気ですか。少年シニアです。

約8.5万年前に一部のホモサピエンスがアフリカを出たことが、結果として人類および

地球に大きな影響を与えました。ある意味、地球に生命が誕生したことにほぼ

近いインパクトのあることだったともいえます。

その後、ホモサピエンスは農業を始め、大規模な組織をつくり科学技術を発達

させ、地球を自らの都合がいいように変えていくまでの存在となりました。

そして、その中心となったのが英国を中心とする欧州の人類でした。

今回はその欧州のホモサピエンスのルーツについてお話しです。

 

人類の足跡10万年全史

人類の足跡10万年全史

 

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  当初誇り高き欧州人は遺伝子の解析によって現在のすべての人類のルーツがアフリカであることを簡単に認めようとはしませんでした。多地域起源説を主張し、自分たちの優位性を信じました。ラスコーの洞窟やアルタミラの洞窟などの芸術的な遺跡などが、欧州に限られて発見されていることも、そうした主張を後押ししました。人類の起源期においても、欧州の人類が文化をリードしアジアを始めとする他の地域の人類はそれに倣って追随したと考えていたのです。

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 しかしゲノムの解析という欧州が中心となって発展させた科学技術が、皮肉にもそのことを完全に否定しました。むしろ欧州はアジアやオーストラリアにくらべてホモサピエンスの進出が遅れ文化的にも後進的な立場であったことがわかってきたのです。約8万年前にアフリカを脱出したホモサピエンスは大きくいえば、海岸づたいにアジアやオーストラリアに向かったグループと、レバント(今のシリアやイスラエル)周辺にとどまっているグループがいました。

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 周辺にとどまったのは欧州にすでにネアンデルタール人がいたことや、気候的な壁があったと思われますが、次第にネアンデルタール人が衰退にむかうと、ついに一部の人類が約4万6千万年前に現在のトルコからブルガリアにはいり、フランスへと向かい、ピレネー山脈を越え、ついに約3万8千年前に欧州の西の果てポルトガルにたどりつきました。その間、以前より利便性の高い石器を改良して、オーリヤック文化なるものを築いていきました。

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 しかし、その後の調査で欧州への進出ルートは、それだけではなかったことが判明しました。いったん海岸沿いにアジアに向かったグループがいったん海岸から離れ、北部にむかいインダス川までいき、そこから東に行かず、なぜか西のカスピ海黒海の北部を抜けて今のロシアからウクライナを経由して欧州に入ったことがわかったのです。こうしたルートの交錯にはその時々の気候変動がかかわってきたことは間違いないでしょう。

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 いずれにしても欧州のルーツは南アジアにあり、そのルートの違いによって様々なアジアノ文化をあもちこんで、最終的には3~5万年前にようやく欧州の地にたどりつきました。

こうしたことを考えると世界はブロックごとにあるのではなく、すべてがつながっていることがよくわかりますし、今でも存在する人種差別がいかにばかげたことであるかがよくわかります。

次回は、海外沿いにアジアにはいりインドネシアを経由してオーストラリアに入ったホモサピエンスについてお話しする予定です。

 

№198📕ホモサピエンス2度の変異

お元気ですか。少年シニアです。

10万年全史を著したオッペンハイマ―によれば、ホモサピエンスは約15~19万

年前に一度 6~8万年前に一度突然変異により二度進化をしたといわれています。

そしてその突然変異のおかげで、度重なる気候の温暖変化により対応し、生き延び

て今に到っているのです。

今回は、その経緯を前回同様10万年全史をもとに考察してみたいと思います。

 

人類の足跡10万年全史

人類の足跡10万年全史

 

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    繰り返される気候変動は、人の住む場所をいやおうなく代えさせていきます。中には先輩のホモエレクトスがアフリカを出たように、アフリカから出ていく者もあらわれたことでしょう。約12万年前の間氷期に一部の旧ホモサピエンスがアフリカを飛び出しレバント(今のシリアやレバノンあたり)に脱出しますが、その後の氷期でその地域で死に絶え脱出は失敗に終わったことは前回でも触れた通りです。

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 そして、その4~5万年後、再び数百人から数千人のホモサピエンスは、故郷のアフリカを離れアラビア半島へ南ルート(紅海の一番南)を通ってたどりつきました。いわゆるその後世界へホモサピエンスを拡散させていくことにつながる偉大な事業「出アフリカ」です。

ただ、どうしてホモサピエンスは、約4万年もアフリカを出るのを待ったのでしょう。気候の変動によって再びアフリカを出るチャンスは何度かはあったはずなのです。

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 その答えはただ一つ。アラビア半島ネアンデルタール人をはじめとする他の人類が住んでいたからです。アフリカを出ようとする旧ホモサピエンスは、海に出て偵察行動をしてその状況を見て出アフリカを控えていたのでしょう。またいったん移り住んでもも気候変動や他の人類との闘いの状況によってはアフリカへ戻れるかどうかも考えなければなりません。この頃の人類はそこまでの洞察力をもっていたと考えられます。非常に慎重で様々なことを考慮して意思決定をしていたようなのです。

そして約6~8万年まえアラビア半島に棲む人類が気候変動によって人口を減少させたりその地域から移動していく状況をみて、数百人をかかえるグループがアフリカからの脱出を試み、遂にアラビア半島への移動に成功したのです。

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  いったんアフリカを離れた後も現代にいたるまで引き続き気候が人類の拡散と拡大・進化を方向づけました。度重なる気候変動はホモサピエンスの行動様式までを変えたようです、脳の拡大をとめ、出産リスクを減少させるとともに、コミュニケーション能力を高め以前にもまして組織的な行動をとる今の人類と同じようなスタイルへと進化させていったのです。

また脳を強化することを優先課題におかなかったので、肉類の摂取もそんなに必要ではなくなりました。むしろアフリカの内地から海をわたった経験をもとに海の幸(魚や貝 海藻など)を主食にするようになり、移動も食糧の確保が見込める海岸づたいに移動することを覚えました。

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 実際、インドからインドネシア、オーストラリアへと移動したホモサピエンスは海外づたいに移動して、約1万年もたたぬ間にオーストラリアに移動していったのです。

海を知ることで簡単ないかだづくりや潮の満ち引きなど海への知識も深くなったことでしょう。これが新ホモサピエンスのその後の発展に大きく寄与したことでしょう。

次回よりホモサピエンスの様々な拡散ルートについて考察します。