少年シニア 55歳から学ぶ理科

生命のルーツを知ることは自分を知ること。生命の不思議で人生ワクワク致しましょう!

№212 脳の容量25% 身長1mたらずの賢人がつい最近まで生存していた

お元気ですか。少年シニアです。

「事実は小説より奇なり」ということばがありますが、今回は人類の歴史の常識を

覆した「ホモ・フロレシエンシス」のお話しです。ホモ・フロレシエンシスとは、一度

も他の大陸と地続きになったことのないインドネシアの東端に位置するフローレンス島

で進化したホモ。エレクトスを先祖にもつ種で、その地域の特殊性により独特の進化を

とげました。その進化の状況がこれまでの人類史の常識をくつがえす進化だったのです

 

ホモ・フロレシエンシス〈上〉―1万2000年前に消えた人類 (NHKブックス)

ホモ・フロレシエンシス〈上〉―1万2000年前に消えた人類 (NHKブックス)

 

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   ホモ・フロレシエンススの遺骨が発見されたのは、今からたった14年前の2004年。本書の著者でもあるマイクモーウッドが発見者です。世界に衝撃が走り大きな話題となりました。ふつうの昔の人類の遺骨ではなかったからです。

まず、おどろかされたのは発見された地層がたった約1万3千~1万8千年前の地層だったということでした。遺骨は明らかにホモ・サピエンスとは異なります。脳の容量が400CCときわめて小さく、これは我々ホモサピエンスの4分の1にすぎません。猿人といわれ約250万年前にいたアウストラロピテクス並みの容量なのです。

それが、約1万3千年前の地層から発見されたのです。脳の容量だけではありません。身体自体も約1メートル強にすぎず体重も30㌔程度の特小サイズでした。(ちなみにその遺骨は女性でした) 長い腕に短い足。これもホモ属よりもアウストラロピテクスに近い特長の持ち主でした。

ホモ・フローレシエンシスの頭骨 ウィキぺディアより

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 腕は体長の割には強く、これは彼女が木登りを得意としていたことをあわしわしています。それによっておそらく食糧をあつめ寝る場所を見つけ、捕食者から身を守っていたのでしょう。

 しかし驚くべきは、この脳の容量と体型をしたホモ・フロレシエンシスが、複雑でホモサピエンス並みの精巧な石器を作り、コモドオオトカゲの攻撃をかわし、小型象(ステゴドン)を狩っていたことでした。

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 当然、彼女の発見は、学会に大きな混乱を呼び起こし、様々な仮説が提出されました。たとえば、身体に障害のあった特別なホモサピエンスであるといった主張が提示されました。また、フローレンス島は、歴史上一度も大陸とつながらない孤島だったので、特殊な環境の中で育ち、そうした環境にありがちな身体の小型化が進んだという学者もいます。競争状態が乏しい世界では、身体を大きくする必要性がないので、大型化する意味はなくそれが、身体の小型化を促すということは、様々な孤島の動物で見られることです。

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 その後、精緻な追加調査により、遺骨は6~10万年前のものだということが明らかになり、絶滅時期も1万2千年前から5万年前の絶滅に後退し、ネアンデルタール人の絶滅よりも前に絶滅していたことが明らかになりました。

ただ、この5万年前というのが、アフリカをでたホモサピエンスが辿り着いた時期と合致し、ホモサピエンスの登場が、ホモフローレシエンスの絶滅につばがった可能性も否定できなくなりました。

まだまだ未知なことは多く脳の容量と知能の相関などまだまだ解明すべき謎が残ります。そういう意味で、今後も注目したい存在であることは間違いないでしょう。

№211📕意外に多様な遺伝子をもった日本人の起源

 お元気ですか。少年シニアです。日本人の起源について国立博物館を中心にDNAの解析によって、5年間で明らかにしようというプロジェクトが発足したという記事が新聞に掲載されていました。これに先立つこと10年前に、このような本が発刊されていました。

 

 

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?

 

 約10万年前にアフリカを出たホモサピエンスが世界中に拡散し、日本にたどりついたのが約4万年ほど前といわれています。しかしどのようなDNAをもった者がどのルートから日本にやってきたかは、まだまだはっきりとしたことはわかっていません。

ただ、DNAの解析技術が発達する中、それをキーにしてその謎に迫る環境が次第に整ってきました。本著もそうした技術を駆使してまとめられてたものです。

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本書で指摘されているのは、ともすれば単一民族・国家という日本の特性を覆して三つのグループが以前から共存していたという実体でした。遺伝子の中核をなすÝ染色体は大きくAからRまでの18の系統に分けられ、さらにこれらはA・B・C・DE・FR系統の5つのグループにくくられるのですが、実体はアフリカに留まったA・Bを除いた3つのグループの者たちが世界に拡散しています。そして当然のことながら各地によって、その比率は大きく異なります。たとえばアメリカ大陸の先住民はℚ系統が広く分布しています。

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 それでは日本はどうかというと、Ⅾ系統が最も多いもののC系統・N系統・O系統(N/ÔはFRの同一グループ)が今でも共存しており世界的に見ても珍しい状況を生んでいます。例えば欧州はDNA多様性が高い地域ですが、系統としては2系統しか見られません。中国・アメリカ・インドその他の国々はほとんどが2系統しかみららません。それが日本では3系統の末裔が今でもみられるのです。これは、日本に入ってきたルートが多岐にわかれていたことをしめしています。

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 日本で全国的に多くの地域で頻度が高いのが、Ⅾ2系統です。Ⅾ系統は新石器時代(約13000年前)の縄文系のヒト集団に由来しています。世界的にⅮ2系統がまとまってみられるのは、日本とチベットとだけだと言います。Ⅾ系統は東南アジアから中国へ北上し、朝鮮半島を経て日本にはいり、いっきに全国に広がっていたようです。

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 これに対してC3系統はシベリアに髙頻度にみられ、九州や四国・本州にわずかにみられます、またアイヌ民族でも認められます。C3系統はインドから東南アジアを経て南上し中国にはいり、一部はシベリアを経てアメリカ大陸へ、一部は樺太から日本へ南下したと言われてます。

最後にO2b系統は東京や沖縄によくみられますが、その分岐点は約3300年ほど前で移動開始時期あ約2800年前と想定されています。こちらは、約2800年に朝鮮を経由して金属器時代弥生時代)以降に日本列島へ入ってきた渡来系の弥生人であるものと想定されています。

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 興味深いのはアイヌ人が単一集団」ではなく、Ⅾ2系統(87.5%)とC3系統(12.5%)と複数のルーツをもつ異なる集団によって構成されているということです。なお琉球については、C3系統は見当たらず、D2系統とO2系統がみられますが、北部ではⅮ2系統が南部ではO2系統が多くみられます。

 世界的な比較でいえば、Ⅾ系統が最も高い比率でみられるのはアイヌ民族で、Ô2系統が世界的にも高く認められるのが、九州や琉球です。

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 今後前述したプロジェクトでさらに日本の起源が明らかにされると思いますが、日本は我々が考えている以上に多様な人類や文化をもった国であったということです。

日本は島国なので同じ遺伝子系統をもっているというのは間違っており、島国だからこそ移動ルートによって多様な文化をもった国であったというのは目からうろこでした

№210📕多様なアフリカの農耕へのシフト

お元気ですか。少年シニアです。前回狩猟採集生活をすてなかった地域として、オーストラリアとアフリカをあげました。ただ、厳密にいえば、アフリカでも他のエリアと比べてかなり時期的にはおくれたものの、ナイル川周辺では、近くの中近東からの影響とナイル川という特別な存在もあって、狩猟採集から農耕へのシフトがおこなわれました。これがエジプト文明の基礎となります。今回は、アフリカ各エリアでの状況をかいつまんで説明していきたいと思います。

 

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

 

 

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 オーストラリアで農耕にシフトしなかった理由に農耕という手間のかかる作業の必要性がないほど食糧に恵まれていたことをあげましたが、それはアフリカも同様でした。アフリカの中央部や南部では氷河期の影響が他のエリアにくらべて少なかったのです。海岸近辺では魚がとれ、比較的狩猟しやすい小型の動物もいました。しかし、一番のごちそうは、地中にもぐっていた牛ガエルでした。アフリカの熱帯地方は、世界が氷河期で苦しんでいたときも湿潤で降雨量にも恵まれていました。こうしたことから、食べられる植物を採集するだけで、農耕も家畜も必要ありませんでした。

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  ただ、アフリカ北部は中央部や南部と違って、氷河期による砂漠化がすすみ食糧事情はよくありませんでした。ナイル川も現在のような大ナイルではなく、小さな川のあつまりで、現生人類を支えるだけの力はまだありませんでした。そんな中、最初に農耕が始まったヨルダンからシナイ半島を伝って農耕民が移動してきます。その頃は、農耕に使用する道具も洗練され、そんなに負荷なく農耕ができたのでしょう。

そんな中、気候がどんどん温暖化し降水量も上昇しナイル川の水かさも増え、今のような大ナイルに川が変化して、人々がナイル川周辺にあつまり集落を形成していきます。人口の増加とともに、これまでの狩猟採集生活だけでは食糧を確保することができなくなり、ようやくアフリカで農耕がスタートしたようです。しかし、その時期はかなりおそく約5000年まえほどからと言われています。

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 しかし大ナイルはその遅れを一気に取り戻すほどの農耕の装置でした。定期的に訪れる洪水が、ナイル川周辺の土壌をどんどん肥沃なものに変えていきました。こうしてナイル川周辺は栄え、のちのエジプト文明の土台をつくりました。

一方家畜化は、農耕に3500年ほど先立って進んでいたようです。人が定住していたと思われる洞窟から飼われていたと思われる羊の糞のあとがでてきています。その他バーバリシープも飼われていたようです。毒草も洞窟から発見されましたが、これはバーバリシープの興奮を鎮めるために採集されたものだと考えられています。

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 また牛も家畜化されていることが洞窟の発掘物から判明していますが、それがいつ頃だったかは、まだ結論が出ていません。ただ、羊やバーバリーシープに先立って家畜化されてていた可能性もあります。乾燥地域で牛が生きていくためには人類の管理が必要であり、野生の牛の存在はありえないからです。そして何といっても、水不足時のときの牛のミルクは、人類に大きな恵みを与えたことでしょう。

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 しかし最終的には農耕と家畜は一部の極地を除いて全世界に浸透し、それが人口の増大と都市を発生させ、他の動物にない地球資源の計画的な活用を生み出しました。これは生命のルールを変え、これまで気候変動とプレートの移動だけが地球を変えていたのに、人類の行動がそこに加わることになったことを示しています。それは大きな責任を人類が負うことを意味します。それを人類がどこまで自覚しているかで、今後の地球の未来も変わるでしょう。

  

 

 

 

№209📕農耕に興味を示さなかった豪州の先住民

お元気ですか。少年シニアです。移動を中心とした狩猟生活から定住を中心とした農耕

生活へのシフトは、人類ひいては地球の未来を大きく変えました。そしてその転換期は

最大氷河期の終わりとされる約2万年前から1万年前でした。最も早く農耕にシフトし

たのは、中近東であり小麦を中心にした農耕が、そして稲作を中心ににした中国の稲作

がそれに続きました。

ただ、すべての地域で、スムーズに農耕生活が進んだわけではありません。かたくなに

狩猟生活をあえて放棄しなかった区域が2か所あります。それは、オーストラリアとア

フリカでした。今回はそのひとつであるオーストラリアの例をみていきます。

 

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

 

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 オーストラリアへ現生人類が到達したのは、約6万年前、欧州へ現生人類のそれが約4万5千年であることを考えると想像以上の速さで現生人類はオーストラリアにたどりついたことになります。彼らが今アボリジニーと言われる人々です。

アボリジニーは、地域によって全く異なるオーストラリアに瞬く間に拡散していきました。約3万5千年前にはタスマニアにも住んでいて、ワラビーやウォンバットなど豪州固有の動物を狩って生をつないでいました。しかし2万年前の最大最終氷河期にはいると、食糧だった動物たちが死に絶え、彼らも死に絶えました。その遺跡に残っていた死体の男は、小柄でがっちりとした寒い地方に対応した体型をしていたといいます。

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しかし約1万1500年前からの温暖化でアボリジニーの生活は一変します。林地に棲息していたロングテイル・マウスやリングテイルボッサムのような動物がワラビーなどに加わって繁殖を繰り返し増大していったのです。

アボリジニーは大体50人くらいの集団をつくり時に他の集団と戦い、ときには協力しあい生きていました。主に食糧が豊かな区域に住んでいたものたちは、他のグループと全く関係をもたずに集団生活を営んでいましたが、砂漠地帯のような食糧が乏しい区域では、極力他の集団と協力関係を結び、互いに助け合っていたといいます。また降雨を確認することができたり、集水地が生み出されたとき、すばやくその場所に移動する準備をするという機敏な行動力ももっていました。

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 そして何よりアポリジニーがアフリカを除く他の大陸の現生人類と異なっていたのは狩猟生活を守り、ほとんど農耕に興味をしめさかったことでした。オーストラリアの北にあるニューギニアでは約8000年前にはすでに農耕生活がおこなわれていました。また同時期に豚の家畜化もされていたようです。飼っている豚の数でその支配力が決定され、貧富の差も発生していました。しかし、アボジリニーはあえて農耕を拒否し、狩猟生活をすてることはありませんでした。かのキャプテンクックは1770年にオーストラリアの北部に来た時、「原住民たちには農耕に関する知識を全く持っておらず、この地域が人々の暮らしを支えるに足るだけのココナッツをはじめとするくだものを産出しているニューギニアになぜ移住しなかったかは奇妙なことだった」と述べています。。

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 しかしアボリジ二ーは植物を栽培する方法を十分承知していました。ニューギニアとオーストラリアに横たわる島々との交易の中で農民たちとの接触機会をもちあわせていたのです。結局彼らが狩猟生活に固執したのは、農耕について思い煩う必要が全くないほど、狩猟対象に恵まれていたからです。そうした狩猟採集民たちは、日々のほんの数時間しか働かず、多大な労力を必要とする耕作と収穫によってひきおこされる身体的な疾患をのがれており、人口密度の高い農耕集落に見られる集団内部の緊張状態や暴力には煩わされていることはありませんでした。

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 我々はともすれば農耕や家畜が豊かな文明の発達への必然的な過程だと考えがちですが、農耕や家畜をする必要がなければ、そんなことはしない方が豊かな生活をおくれるということを、アボリジーニやアフリカの原住民たちは教えてくれているのかもしれません。進化しない方が豊かな生活をおくれるのであれば、進化することはしない。変えない方が豊かなら変えない方がいい。変革・変革ととなえる世のトップはこのことを理解すべきではないでしょうか。(正直私はケータイのない時代の方が、のんびりできて人との交流も多くて豊かな生活をおくっていました(笑)

 

 

№208📕2万年~1万年前(中国 稲作への歩み)

お元気ですか。少年シニアです。

前回は我ご先祖さまの農耕までの歴史をみてきました。今回は我が祖国日本の歴史や

文化に多大な影響を与えてきた中国の状況を見ていきます。

 

 

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

 

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 中国の農耕に最も大きい影響を与えたのは何と言っても揚子江でしょう。他の国でも川の周辺で農耕がスタートします。ナイル川しかり、チグリスユーフラテス川しかり。定期的に訪れる洪水により、その周辺の土地を肥沃なものにするからです。

約2万年前、中国には野生のクマ、トラ、ハイエナ、パンダの他にサイや今はもう絶滅したステゴドンなど多くの大型動物がいました。中国に住んでいた狩猟民は、これらの大型動物を狩ったり、河川や湖で貝類を拾い集めて生活をしていたことでしょう。もちろん野生のイチゴや根菜類も彼らの腹を満たしたでしょう。

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 しかし最終最大氷河期を終え温暖化がすすんだ約1万4000万年前、揚子江の上流周辺で発生したある植物の新種が、その後、20億人もの生命を維持することになります。そうです。イネです。中国は今でも米の最大生産国であり消費国でもあります。

以前はイネの栽培は約9500万年前にインドもしくは東南アジアで始まったと思われていました。ところが、1984年に揚子江の峡谷平野で野生のイネの小さな群生が発見され、その後、それは集約的な農耕が行われた結果として自然の発育地が壊滅してしまったことがわかり、その周辺の遺跡からイネの化石が発見されたのでした。

そのイネの化石が野生種のものか栽培種のものなのか、どうしてわかったかというと、栽培種の方が明らかに大きかったからです。イネの栽培は、いったん氷河期に戻った約1万2千年前に、いったんすたれてしまいますが、再び温暖化にはいったころから再び復活することになります。

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 さて、日本は農耕以前から土器がつくられていましたが、中国は農耕の進化とともに土器も進化しました。土器の作りては主に女性だったようです。竹でつくったむしろに胡坐をかいて、器用に粘土をこねてつくっていきます。柔らかな年度の骨製の尖頭器をつかって波状の模様を刻み込みます。

ここにはヨルダンで見られた石臼や石のすりこ木やすり鉢はありません。イネの栽培をつきとめることができたのは、ひとえにその遺跡から出てきた土器の中に焼け焦げたもみ殻や米粒が含まれていたからです。それは偶然紛れ込んでいたものではありません。これらを混ぜることで粘土を焼いている途中にひび割れてしまうのを防ぐためでした。その後は、これが砂にかわるのですが、中国人はこうした試行錯誤を繰り返しながら、品質の高い土器を製造していったのでした。

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農耕は今のように田んぼに水をひいておこなうというものではもちろんなく、洪水ですでに水で潤されたなった土壌に種を蒔くという単純なものでした。野生種のイネが自生していないところで育てられた場合のみ強脆くない穂をつけたイネを生み出し、さらに収穫段階で脆くない穂をつけたものから種をとることで、さらに強いイネができ、それが繰り返さ恵れることで農耕作業は効率化されます。

こうした中で農耕技術は年々進化し、それが日本にも伝来し多くの日本人の主食が米になっていくことを考えると、やはり中国の稲作は日本にも大きな影響を与えることだったことが理解できます。

 

 

 

 

 

 

 

№207📕約2万年前から農耕生活へ(日本編)

お元気ですか。少年シニアです。

いよいよ我々日本の2万年前から農耕が開始されるまでの状況を見ていきたいと

思います。そこには日本ならではのオリジナルな姿がありました。

 

 

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

 

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  日本に人類が登場したのは約3万年前、東南アジアから台湾を経て来た者が最初だという説や中国北部から南下してきた者たちが最初だなど諸説あります。その我々のご先祖様は、厳しい氷河期をようやく脱した約1万1500年前にあの岡本太郎が絶賛したアートとしても通用する土器(いわゆる縄文式土器)を使って質素ながらも豊かな生活をしていまた。このようなアーティスティックな土器は世界にもまれで細い棒で壺を回転させながら複雑な幾何学的な模様が施されていました。

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 日本の狩猟採集民が移動性の生活スタイルから定住性のそれへと切り替えたのは、約1万1500年前ぐらいからでした。縄文時代の人々は幸いにも日本の林地と沿岸の豊かな食糧源を利用することができたので、もっぱら自然界から得られる食糧に依存して生活していました。ですから農耕の必要性が少なかったのです。そこが、最初に農耕が開始されたヨルダンとの違いでした。

ただ、彼らは自然界から得られる食糧を一定の期間保存したり調理するための土器をうまく利用しました。縄文式土器がまだ移動生活をしていた最終氷河期以前の1万5千年前から使用されていたことが、九州西部の遺跡からその破片が出てきたことで証明されています。日本は世界最古の土器を生み出した国なのでした。

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 日本の文化性の高さは土器に留まりません。日本の狩猟採集民は石斧の刃を研ぐことでその切れ味を高めていましたが、それはヨーロッパにおいて用いられる数千年前にすでに実行されていました。縄文人は漆も創案していました。漆の木の樹液を土器に塗り、加熱と濾過の工程を加えていました。これが約9000年前で、これも世界最古の漆器とされています。

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 なぜ縄文人が創意にみちた土器を、世界のいかなる土地よりもはるか早い段階でつくっていたのでしょうか。それよりかなり時代はたつとはいえ、早い段階で土器を作っていたのは中国人であり、それは稲作に土器が必要だったからです。でも日本は違います。稲作をするずっと前から土器を使用していたのです。これには諸説あるようですが、九州を被っていた広葉樹林の産物の調理や貯蔵のために土器が必要だったのではないかという説が有力です。しかし欧州などではこれらの用途を満たすためにもっと簡便な枝編み細工や木や石でつくった器ですませていました。

中には部族間の争いの中で、実用面よりもその部族の技術力を誇示するために創意ある土器がつくられたのではないかと考える学者もいます。縄文時代後期には、それだけ時間と技を駆使して創った土器を豊かさをこれみよがしに示すためわざと叩き割ったと思われる破片も遺跡から出ているくらいです。

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 ただ、部族間の争いがあったとはいえ部族内の中で貧富の差がみられるような物的な証拠は見当たりません。

そうした彼らがようやく農耕生活をはじめたのは、7000年前に九州の南部沖に発生した最大級の噴火がきっかけになったとみられています。海を越えて襲った火砕流は、北海道にまで火山灰を積もらせるという前代未聞の噴火であり、日本が狩猟生活に留まる背景にあった豊かな自然を一瞬にして奪ってしまったのです。

そんな中人々は、中国同様自生していたイネの種を栽培するようになり、本格的なイネの耕作が中国から伝授される2500年前まで、狩猟と栽培の二本立ての方法で生をつないでいきました。日本の豊かな自然と苛酷な自然が狩猟生活から農耕へのシフトの他の国々では見られない物語を紡ぎ出したのでした。

 

 

№206📕農耕・牧畜への歩み(2万年前以降の世界 アメリか大陸編)

お元気ですか。少年シニアです。

アメリカ大陸への人類の移動は最も謎にみちています。移動時期、移動ルートなど

決定的に裏付ける証拠がないのです。今回はアメリカ大陸の約2万年前から1万年

前を見てみます.

 

 

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

 

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 まず、最初のアメリカ大陸への移動時期と移動方法についての学会において最も有力な説は氷河最盛期(約2万年前)にはいってシベリアとアラスカをつなぐベーリング海峡が海面の低下によって橋となり、北アジアからアメリカ大陸へと移動していったという説です。ただ、渡ったもののアラスカの氷河の厚さは半端なものではなく、アラスカの近辺に留まるしかありませんでした。それが温暖化の流れが数千年続くと、ようやくアメリカの各地に進出することが可能になったようです。

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 アメリカ大陸の最初の人類の生活様式に関して最も有名なののは「クロ―ヴィス文化」とよばれるものでした。この名称はニューメキシコ州の小さな名前ーその町の近くの遺跡からいくつかの尖頭器とマンモスの残骸が発見されたことに由来しています。最初にアメリカ大陸にはいった人類は、マンモスという大物を高度な技術の必要な尖頭器で、協力して狩りをしていたのです。その後もアメリカ各地でクローヴィス尖頭器とマンモスの残骸が発見されました。それらの遺跡はどれひとつ約13500年前にまで遡っていませんでした。この遺跡が本当の意味で最古のアメリカ大陸の人類だとすれば、約5000年間くらいアラスカ近辺に留まっていたことになります。

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 しかし、このクローヴィス文化に疑問をもつ学者があらわれます。アラスカのから約1万3500万年以上前に人類が住んでいたという痕跡がみられないうえに、移動の入口であるシベリアにも人類が定住していた痕跡がみつかっていないのです。

さらに、その後アメリカ大陸で、1万8000年前に人類が定住していたと思われる遺跡がでてきたのです。そうなると、アジアからアメリカ大陸への移動時期はもっとはやくおこなわれていたということになります。

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 そのうえ、次は南米チリの遺跡で約1万4500年前に人類が定住していた証拠があらわれ、アメリカ大陸へのの早期移動説を後押ししました。ベーリングからチリまでの距離は約1万5000㌔。アラスカ近辺に5000年ほどとどまっていたとしたら、これは完全に矛盾したことになります。移動時期は2万年前の最大氷河期ではなく、最大の氷河期前にアメリカ大陸についた人類が最大氷河期になるまえに、アメリカ大陸に拡散していったとも考えられます。まだまだ移動時期と移動方法は未知のままです。

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 南米での人々の生活は北米以上多様で、狩猟や採集・魚つりを中心に様々な方法で、生をつむいでいたようです。アマゾン川流域はその地域の苛酷さから人々が住んでいたのは5千年前くらいだろうと思われていましたが、実際は1万年前から人が住んでいたことがわかっています。ただ農耕は予想以上におくれていたようです。それだけ野生の植物や狩猟対象に恵まれていたからかもしれません。家畜化が農耕に先行して推し進められていきます。狩猟対象だったアルパカやリャマの牧畜の対象だったようで、すでに7千年まえ以上から本格的な家畜化がすすんでいきます。本格的な農耕はその後に本格化しますが、意外なのはジャガイモの種子を集め栽培していたということです。ご存じジャガイモは紀元後1500年以降欧州にはいって北部を中心に欧州の食糧のメインとなりました。そのルーツが南米にあったというのは、とても想像はつきません。南米でも比較的涼しい高地で栽培されていたようです。

次回以降は日本も含めた東アジア 東南アジア 豪州などの氷河期以降を記する予定です。

 

 

 

 

№205📕農耕・家畜への歩み(2万年前から1万年前 欧州編)

お元気ですか。少年シニアです。

農耕と家畜が最初にはじまったのが西アジアであることは前回のブログで記しました。では他の地域ではどうだったのでしょう。今回はヨーロッパの状況をみていきます。

 氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

 

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 約2万年前、最大氷河期が訪れたときに、西アジアとヨーロッパが決定的に異なっていたのは、氷河エリアでした。最大氷河期には北欧はもとより、イギリスやドイツなども氷に覆われ、生活エリアが極端に狭まったのです。そのためそこにいた人類はポルトガル・スペイン・イタリア・フランス南部・ギリシャに南下してきます。そうなると当然のことながら食物の奪い合いとなり、人口は激変しました。

しかし、数千年後地球は温暖化し再び楽園がおとずれてきました。西アジアの狩猟民の栄養源はガゼルでしたが、ヨーロッパではトナカイでした。狩猟による不安定ながらも幸福な日々は続くと思われました。南部のラスコーやアルタミラでは洞窟にアートとしての絵画を描くようになったのもこの頃です。

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 ところが、約1万2千年前、再び急激な氷河期におそわれました。特に北部は林だった地域は再び再び不毛なツンドラへと舞い戻りました。野生の穀物を栽培するという技術をもちあわせていない彼らは、絶滅寸前にまで追い込まれ、再度トナカイの群を追うことしか術はありませんでした。

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 ただ、再び約1万年前から気温が上昇し完全な間氷期にはいると次第に、以前のような余裕のある狩猟と野生植物の採取の生活に戻りました。そんな折、約1万1千年前、ギリシャの南部の遺跡から野生の麦や豆の種が保存されていました。その数は27種の異なった植物の二万八千粒以上の種子でした。西アジアで始まった農耕が西アジアからヨーロッパに移動してきた人や交易を通じて、農耕技術が欧州に約千年ほど遅れて伝わってきたのだと想像されます。

狩猟から農耕へのシフトにつれ、洞窟に描かれた食物のシンボルであった動物の絵も激変するようになりました。

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 とは言っても、一気に狩猟生活から農耕生活へとシフトしたわけではなさそうです。農耕は思った以上に重作業ですし、そこから得られる栄養は、狩猟で得られる栄養の比には及びません。狩猟生活は不安定ですが、その分、狩猟が終われば自由な時間が待っています。また少数の共同体なので貧富の差もなく人間関係のわずらわしさに悩むことはありませんでした。しかしそれでも徐々に狩猟から農耕へのシフトが進み、こちらも西アジアから数千年おくれて約七千年前ぐらいからイヌの家畜化が進みます。ただ、ヨーロッパは西アジアよりもエリアが広く西アジアほど土地も温暖で肥沃でなかったので、本格的な農耕は、紀元前5千年ほど待たなければまりませんでした。

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 狩猟民も狩猟をしながら簡単な農耕をして、その意義を認識しながらその安定性に惹かれ、また道具の進化により農耕業務が従来より負担がかからなくなるのを見届けて農耕生活を主としやがて食糧確保のための家畜化を推し進めていくようになっていったのです。

 

 

№204📕農耕・家畜への歩み(2万年前から1万年前の西アジア編)

お元気ですか。少年シニアです。

前回は、ホモサピエンスの出アフリカ(約8万年前~)から約6万年をかけて、世界

のほぼ全領域に拡散していく様子をみてきました。特に約2万年前に発生したLGM

(最終氷期全盛期)はユーラシア大陸からアメリカ大陸の進出を促し、最終的に南米

の先にまで人類は移動し、各地でその気候や地質にあわせた生活を送り、それが遺伝

子の変化や文化の変化をもたらし多様性をうみ、現在に到っています。

その際大きなポイントになったのは、約1万年前から本格化しはじめた農耕と家畜だ

といわれています。そして、農耕や家畜自体の行為が気候や地質を変化させる要因と

なっていきます。今後数回にわたって約2万年前の氷河期から農耕や家畜がはじまる

までの各地の経緯を考察していきます。

まず1回目は、世界で最も早く本格的な農耕が始まった西アジアから。

 

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

 

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  最大氷河期といわれたLGM以降、次第に地球は徐々に温暖化してきました。

これは動物や植物にとって歓迎すべきことで、特に植物において氷期時代は砂漠だった場所に草木(特にイネ科の植物)が生い茂るようになりました。

最初に農耕をはじめた西アジアにおいても、氷期以降はまだガゼルを中心に狩猟生活を送っていました。そのうえで、食物になる野生のイネ科植物を採取していました。こうした豊かな食生活は人口の増加を促しました。次第に集落の規模も大きくなっていきました。そして西アジアでは文化と呼べるような生活様式が約1万2千年前ころに誕生します。これがナトッフ文化とよばれるものです。

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 彼らの主な仕事は採取した植物を食料に変えることでした。大きなすり鉢をつくり、採取した植物をいれてすりつぶし粉にするのです。通常、狩猟生活はその日暮らしですが、将来に備えて木の実を確保するなど、安定した生活を目指すようになりました。住処の入口には灰を散乱させ、ノミや虱などを寄せ付けないための火をおこしました。

この時代には狩猟民族の住む家も自然に強い石積みのものが主で、これは狩猟民族の住居が移動から定着に変化したあらわれだと思われます。この時代の遺跡にはラットやマウスなどの骨が散乱していることが多く、定住した家に棲みつく動物が現れてきたのです。

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 また当時、すでにイヌの家畜が進んでいたことがわかっています。当時の遺跡の近くに子犬が埋葬されていたのです。狼は定住生活にひきつけられたマウスやラットを捕食するため人類のエリアにはいりこみ、住民もマウスやラットを駆除してくれる狼を歓迎し、番犬として次第に家畜化されたのかもしれません。一般的に家畜されたものは野生のものよりも小型化します。狼も家畜化の過程で独自の遺伝形質をもつようになり、狼より小型のイヌが生み出された可能性も否定できません。

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  ただ、ナトッフ文化の時代に植物の栽培が始まった証拠は未だ見当たりません。栽培がはじまるのは約1万年前です。温暖化していた気候が1万1千年頃から寒冷化して、再び厳しい時代に突入し、彼らは再び定住生活から移動生活を余儀なくされます。主食だったガゼルも激変し植物も枯れ、集落の単位も小さくなりました。

しかしそれから1千年後、再び地球は温暖化の流れに戻りました。雨がふり川の水も増水し、以前にもまして肥沃な土地がうまれたのです。そしてそのとき彼らは以前のように今ある食糧資源をただ採取し蓄えるだけでなく、ラィ麦やエンドウや豆などの種を事前に確保し、それをまき栽培することを学び実践しました。こうして彼らの生活はより安定して、その安定を願う宗教的な行為もみられるようになりました。

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 人類は狩猟や防衛に役立つイヌに続き約1万年前ヤギやひつじも家畜化し、乳糖を摂取するようになりました。そしてさらに牛、豚を家畜化し、生活の基盤は徐々に農耕と牧畜に依存していくようになります。小麦や大麦の栽培やロバや馬の家畜化はまだ数千年を要しましたが、この農耕と家畜が西アジアから始まったことで、その行為は全世界に伝播し、人類の遺伝子や生活様式を大きく変えることになったのです。

 

次回はアメリカ大陸の2万年前から1万年前の様子をみていきます。

 

 

 

№203📕アメリカ大陸への移動諸説

お元気ですか。少年シニアです。

今回はアメリカ大陸の祖先の話しとなりますが、当初は、単純に大氷河期(LGM)

以降、シベリアとアラスカがつながって、ベーリング海峡を廊下としてそのルートで

続々とがアメリカ大陸へ人類が入殖したと思われていました。しかし、アメリカ大

陸の遺跡や化石、南米の遺跡や化石を綿密に調査していくうちに、この説に疑念を

もつ学者が現れてきました。

 

人類の足跡10万年全史

人類の足跡10万年全史

 

 

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 当初はアメリカ大陸への入殖は1万年前にも満たない時期とされていましたが、その後ニューメキシコ州のクロ―ヴィスで1万年前以降の地層からマンモスの骨の近くに大きな尖頭器が見つかり、アメリカ大陸の入植は1万年前より古いということが明らかになりました。その後、クロ―ヴィス尖頭器はアメリカ大陸の各地から発見されます。ただ、それは全て1万1千万~1万千五百万前のもので1万2千万年前より古いものはありませんでした。1万2千年前というのは、北米で大氷床がとけてアラスカからカナダ・アメリカへの通過が可能になった時期であり、この点でも、クローヴィス最古説はほぼ合理性の高い説とされました。

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 ただ、ベーリング海峡が氷河期で氷廊となりアジアから人類が移動した時期については、様々な説がとびかいました。1万5千万年前という学者もいれば2万年前という学者もいました。またオーストラリアの入植が海を渡ってというのが定説でしたから、ベーリング海峡が氷廊になる前に移動している可能性も示唆されました。

そうした議論がされている中、約1万9千万年前のアメリカ東部にあるメドウクロフト洞窟から大量の石器が発見されました。これにより、シベリアからアラスカへの移動はLGM以前の2~2万5千万年前まで遡るのではという説が有力となりました。

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 しかし、それで学会の意見が統一されたわけではありませんでした。さらに南米チリのモンテベルデから、約3万3千年前の地層から人類が使用していた石器が発見されたという情報がはいってきました。しかしこれはさすがに証拠が不足していました。ただ、少なくとも1万2~3万年前には人類は南米の先までたどりついていたことが明らかになりました。モンテベルべ遺跡はアラスカから1万2千キロ南にあり、いずれにしてもクローヴィス説よりも早く人類はアジアから移動してきたことになります。氷期の進行は予想以上に人類の南米への移動を加速させたことでしょう。

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 さらには、移動ルート自体がベーリング海峡越しだけではなく、フランスやスペインに接する欧州の氷河避難地域から船を使って大西洋を渡りアメリカの東岸にたどりつきクロヴィスの人々になったという説も登場しました。この他、南米にはアフリカから太平洋を横断して移動したという説まで存在します。

アメリカ大陸への人類の移動についてはまだまだ多くも疑問と決定的な証拠がありません。この謎がまた我々の好奇心をくすぐり調べようという意欲につながります。

まだまだわからないことが多い。そのためにもDNAの解析だけでなく、考古学・言語学などの専門家がうまく連携して事実を明らかにしてもらいたいものです。